トイ・ストーリー4考察〜子供部屋おじさんウッディと、おもちゃの働き方改革〜
ども…日々、インターネットや酒場や稽古場で自分語りをしている、はましゃかです。いつもなぜか経済的に限界ですが、ひょうきんさでやり過ごしています。
今日は思い入れのある作品についてなんでも書いていいとのことで、『トイ・ストーリー4』(2019年公開、長いのでこれ以降『4』と表記)を観た時の感想が熟成してきましたので語ります。
どうしたって自分が捨てたおもちゃを思い出して懺悔したくなる映画No.1だと思いますが皆さんどうでしょうか。でもね、途中まで見て辛くなって4まだ観てない方、観たけど辛くなったあなた、今日のこの解説を読めば、救われること間違いなし。
注釈:現在の世界情勢の中で、ディズニーがイスラエルの団体に寄付したというニュース(出典)から混乱した感情を持っている人も多くいるはず。ピクサー社はディズニーの傘下だし、うぬぬ…と思ったけど、私個人としては2024年1月現在のBDS運動を主導するBNCの見解を元に、ボイコットではなく圧力をかける形に留めるという態度に賛同したい。
今回は視聴のおすすめというより、俺の話をしますので聞いてくれという状態なので、ディズニー+に入らずとも必要なネタバレは全部話すので安心してほしい。
1〜3までの雑ネタバレ&ここまで全部大フリ
『トイ・ストーリー』(1996):実は人間が見ていない間、おもちゃは自由に歩き回り、喋り、おもちゃ社会を築いていた!カウボーイ人形のウッディは、アンディの1番のお気に入り。ところが、最新式のバズ・ライトイヤーにその座を奪われそうになるが…!?迷子とかを乗り越えてウッディたちとバズは友達であり仲間になる。
『トイ・ストーリー2』(1999):ウッディは超プレミアビンテージということが判明し、博物館に売り飛ばされそうになる。その先で同じ種類のカウボーイガールとおじさん人形に出会って自分のルーツを知るも…!?結局アンディの元に帰ることを選び、めでたしめでたし。
『トイ・ストーリー3』(2010):アンディは大学に行く直前で引越し作業中。間違って保育園に寄付されちゃって園児によだれまみれにされるのに怯えたり、焼却場でピンチを迎えつつ…?最終的にアンディが、ボニーという女の子にウッディたちを譲るという号泣エンド。
これが1〜3もあらすじ。3の最後で長年見守ってきたアンディのもとを離れて、ボニーという女の子のもとでセカンドキャリアを歩み始める、ところからが『トイ・ストーリー4』。
まぁここまではね、4のための大フリだったんだ、と思いました、私は。1996年にこの作品を作った人たち、23年後にこんな大・伏線回収されちゃって、たまげてひっくり返ったんじゃないか?
シリーズ全体を覆す”くそでかパラダイムシフト”
あ〜〜〜4、改めてめちゃくちゃよかったですね。おもちゃとしてのプライドぶち壊し、ひっくり返る「おもちゃとしての幸せとはなんだ?」という問い。
この問い、1から3まで見た人たちは一体どんなものだと思います?
アンディのそばにずっといること?
人気者であり続けること?
毎朝ボニーに選んでもらうこと?
なんと、今作までの 「持ち主に溺愛されることこそ至上主義」が、覆されます。
ここが4の賛否が分かれる理由でもあるんだけど、おもちゃの幸せとはという問いへの答えが「1人の持ち主に保有され、遊んでもらい続けること」だというのが4を見ても変わらなかった人にとっては、絶望のエンドなわけです。
でもね、『トイストーリー1-3』まではおもちゃは徹底しておもちゃなんだけど、急に4から、人間風味になりますから。突然「生き方にはチョイスがある」って話になるんですね。え、人間じゃん。成人式じゃん、君たちはどう生きるか?という問いが急におもちゃに手渡されて、えっそんな急に突き放す?そもそもそんな選択肢自分にあったの?急に選挙権とかリアルに感じて人権に目覚めた新卒ばりに決断を迫られます。
というのも、2作目以降姿を消していた、ボー・ピープ※という羊を連れたドレス姿の陶器人形が、人間に所有される以外で生き生きと暮らす選択肢を引っ提げてウッディたちの前に戻ってくるんです。
※個人的感動メモ:日本語吹替のボー・ピープ役の戸田恵子さん(戸田恵子さんはショムニの時からいつだってかっこいい)が成熟したかっこいいボーを120%表現しているのと、フォーキー役の竜星涼さんがこれまた最高の「ゴミ?」を連発していて私は一瞬でフアンになってしまった、素敵なパフォーマンスをありがとうございます
フリーランスおもちゃ爆誕の瞬間。いや、今までもいたけれど、お家の中で人間たちとぬくぬく暮らす生活が当たり前のウッディたちには文字通り「見えてなかった」生き方のおもちゃたちがボー以外にも次々登場します。
例えば、縁日の景品で壁にかけられたままのぬいぐるみ。アンティークショップでガラスケースに飾られたまま埃を被った人形たち。
ボーは、ドレスをマントに翻し、相棒を見つけて、定住せずに移動しながら公園で子供たちと遊ぶ選択をしてました。
セレブを満喫していた、子供部屋おじさんのウッディ
おもちゃの与えられる環境、格差社会ともいえる問題が残酷なほどに描かれることで、いかにウッディがいた環境が安全で、小さく、恵まれた「セレブ」な環境だったかが見えてきます。
ウッディが属するおもちゃコミュニティで彼らが「今日遊んでもらえる/もらえない」と小競り合いしていたのは、彼らのコミュニティの中で「子供を愛し子供に愛されることこそがおもちゃの価値である」という価値観が浸透しているからでした。「愛され度」によるヒエラルキーの中で、ウッディたちは当たり前のように上を目指すべく生きていた。
その疑いもしなかった価値観がいかに狭い視野だったのかということが、そんなルール全無視で生きる、セレブおもちゃ層と全く無縁の、無名で、誰にも買われず、時代遅れで好かれず、壊れて汚くてキモくて怖い、周縁のアウトローおもちゃたちによって気付かされていきます。
1人の子供に愛されることこそがおもちゃの幸せなのであれば、その持ち主に遊ばれなくなるということや、捨てられることはウッディたちセレブおもちゃにとって文字通り死を意味するわけで。
1の作中ガソリンスタンドで迷子になったウッディがパニックになったように、もし捨てられて迷子になったら一生の終わり、というのがウッディの考えうる最悪の展開だとしたら、実際にその先を生き抜いているおもちゃたちがいるなんて、彼に想像がついたでしょうか。
そもそも「持ち主がいる」とか「人間に価値が認められてる」ってことがどんなに恵まれているのかに気付けてなかったウッディたち。持ち主がいるおもちゃ同士の小競り合いなど屁でもなかったんだ!そもそも家も定職もないおもちゃもたくさんいるんだ!もっと命をかけた戦いがあるんだ!というアウトローおもちゃたちの叫びに共感してしまった限界フリーランスぼく……。
そんな風にウッディを見ると、なんとまあ世間知らずのもやしっ子に見えてくることか。見れば見るほどウッディが「子供部屋おじさん」に見えてくる不思議。
保有されないおもちゃたちに光が当てられることによって、定職につかない私たちまでもが救われちゃう。そう私たち、誰かに愛されてなくたって、人気なくたって汚れてたってブッ壊れてたって役に立たなくたって経済回してなくたって、自分で決めた生き方に自信持っていいんだった。誰かに決められた愛されレースになんてハナっから参加しなくていいんだった。自分で自分のあり方に、納得いってればいいんだった……!!!号・泣
唯一性のみで愛される、フォーキーの存在
おもちゃのパラダイムシフトが起こりまくる4の最強形態が、フォーキーという新キャラです。
ウッディたちが引っ越した先のボニーという女の子が、プラスチックフォークにモールを巻いて作ったおもちゃ、フォーキー。こいつの「ルール全無視」加減がウッディたちに衝撃をもたらします。
フォーキーはゴミ箱から拾われた材料でできているので、この経済社会の中ではなんの商品価値もないわけです。旧来のおもちゃヒエラルキーで見たら、無名で、丈夫じゃなくて、トレンドや機能も一切持ち合わせてない、セレブおもちゃ評価軸ではマイナスなことばかり。そして何よりフォーキーの重要な初期設定である「自認=ゴミ」という認識によって自分がおもちゃだと思っていないないため、子供に対する忠誠心が一切ない。
少し目を離せばゴミ箱に飛び込んでしまうフォーキーは、「子供に遊んでもらったらおもちゃとしてのプライドが満たされる」みたいな現象が一切起こらないわけです。ここがウッディたちを1番困惑させます。
想像に難くないと思いますが、フォーキー、持ち主のボニーから溺愛されます。それは忘れられかけているウッディたちからしたら喉から手が出るほど欲しい愛情。視界から消えれば名前を呼んで探され、一緒に寝る重大なお役目を任される。これ以上に嬉しいことはない、嬉ション案件です。
でもフォーキーはボニーからの愛情が全然嬉しくないんですね。他の子だったらとかいう選り好みではなく、そもそも子どもに愛されたいと思わない。だって自分はそもそもおもちゃじゃなくてゴミだから、ゴミ箱にいるのが1番安心するんです。みんなが持ってて当たり前だと思ってる感情を持たずに生まれてきた、おもちゃのクィア的存在でもあるフォーキー…!!!
ボニーがフォーキーを好きな理由は、たったひとつだけで、それだけは絶対ほかのおもちゃには真似できないことなんです。それは、「ボニー自身によって生み出された存在」だということ。
おもちゃがどんなに持ち主を愛してるかなんて、悲しいかな結局は人間サイドは知ったこっちゃない。結局は忠誠心のあるなしなんておもちゃの自己満足なんですねぇ。フォーキーは私が作ったこのフォーキーだけ、その唯一性のみで愛される強さ、勝てない……。フォーキーの無関心とは無関係に、なによりも「持ち主そのものによって作り賜られてる」という他の追随を許さないロイヤリティがもうそこにある。その繋がりは一生消えることがないんですよねぇ。子どもが作ったおもちゃであろうと商品として作られたおもちゃであろうと、分け隔てなく”命”は宿る、という創作賛歌とも取れます。
バズ・ライトイヤーが1でウッディの席を奪った理由が「最新で、機能的で、人気だから」っていう、とっても資本主義的だったのと正反対の、フォーキー台頭の理由。これって「子どもは、有名だとかみんな持ってるとかそんな理由だけでおもちゃを選ぶわけじゃない」っていう熱い製作者からのメッセージなんだよな、と私は受け取りましたよ。
全ての「おもちゃを捨てた人」への贖罪映画
なんか…そこまでいくんだ、おもちゃの多様性とおもちゃの働き方改革にまで手出しててすごすぎワロタ、と思いましたね。
1でそもそも、おもちゃを擬人化していた我々キッズがまず持つであろう「こいつら、私がいない時寂しくないんだろうか?」という心配を拭い去ってくれた本作品。大丈夫、おもちゃたちだけでも楽しくやってっから!という答えをくれた。
さらにそこから、禁断の「捨てられちゃったおもちゃは、一体どんな気持ちだっただろう」にまで答えてくれるなんて、救いすぎです。
本気でおもちゃを擬人化して考えるなら、トイストーリー3までだとキツい。
その価値観でいくとアウトローなおもちゃ、買われず、関心も向けられず、乱暴に扱われるおもちゃの方が多すぎる。捨てられたおもちゃも数知れず。ウッディたちはカーストの上部0.0001%で、セレブな上流階級で、えっ、じゃあそれ以外のおもちゃは?みんな不幸なわけ?ってなっちゃう。
その不安感を、「ウッディが超弩級の箱入りおもちゃなんです!おもちゃには色んな生き方があるんです」というひとつの救いを見せてくれた4。
先駆者フリーランスおもちゃことボーみたいに、もしたまたま昔の持ち主に出会っても、つかず離れずの距離で見てくれるおもちゃもいるんだなと思うとさ、自分が捨ててきたおもちゃに対する償いにもなるんですよ。 ゴミ袋に捨てられても自立したおもちゃたちだったら勝手に抜け出して元気にやってるだろうって。
これは、おもちゃを捨ててきたすべての元こどもたちのための贖罪の映画……。
著者プロフィール:はましゃか
北海道出身のエッセイスト/俳優/広報活動家。多摩美グラフィックデザイン学科’18卒。WEB記事執筆・PR・登壇等、自分語りでご飯を食べています。映画美学校アクターズコース修了上演展『靴履く俳優』(2月29日〜3月3日)に出演予定。 Instagram @shakachang